ルアンポー・プラモート・プラモートショー

スアン・サンティタム

そもそも、ダンマは身近にあり、すごく近いものである。自分自身のことである。ダンマの範囲は極めて、簡単である。単なる“どうすれば、苦が生じない”だけである。ダンマを修行するには、“苦とはどこにあり、どのように生じ、どうやって消すのか?”を徹底的に修行すればよいであろう。そして、ダンマの達成は苦を脱出するまでの実際の修行にある。厄介で豊富な知識のため、奇妙にダンマが分析できることとは全く関係がない。

「ダンマ」 (梵語: Dhamma)- 法 (仏教)、ダルマ (ジャイナ教)を参照。また、ヒンドゥー教において宇宙の法と秩序、正義を司る神の名でもある。

尊いルアンポー・プラモート

尊いルアンポー・プラモートはチョンブリ県のシラチャ郡にある“スアン・サンティタム”(平和であるドルマの園)で在住している。ルアンポーは真の道を理解して自分自身が解脱しようと努力する人々のために、ダンマを教えている。

ルアンポーの前に、なるべくホールの中心に席の列を作り、教えを聞くために、早朝から1時間半のドライブに出かけたバンコクの住民は、自らの修行についての懸念を表明し、個々のアドバイスを受ける。 (通称は“宿題を提出する”と言われる。)
タイ国内だけでなく海外へも、人々の心を目覚めを助け、疲れを知らないルアンポー・プラモートは近年、最大の仏教の啓蒙運動の中心になってきていると知られている。

ルアンポーが7歳の頃から瞑想を始めたが、やっと、2001年に出家をして、多くの恩師に出会った。そのうち、ルアンポーは自身で、ルアンプー・マン・プリタットウー(北東部の森林僧院の大僧侶)の初期の弟子であるルアンプー・ドウンの本質的な教え子であると確信する。

タイでは、尊い僧侶に対して、年齢と年齢の差によって、名前の代わりに又は名前の前には、ルアンポー(หลวงพ่อ ポーとは“父”である) 、ルアンプー(หลวงปู่“プー”とは祖父である)、 ルアンター(หลวงตา“ター”とは祖父である) を付けて呼ぶ習慣がある。 一般には自分より若い僧侶にも“ルアンピー”(หลวงพี่ “ピー”は兄の意味である)をよく使われている。

我々はダンマに対して、すごく簡単かつ普通であると考えることはなかなかできない。なぜならば、宗教としての姿勢や知られているダンマの姿は、どう見ても、普通ではないからである。使われた言葉などバーリ語をはじめ、特定の単語ばかりで、その言葉の意味を解釈するだけでも、もう難しいと感じる。

やっと、言葉の意味を理解してから、本格に勉強に入っても、また困難にぶつかる。それはあまりにもお釈迦様の教えに関する膨大な文献の量に圧倒され、さらに、後の世代の像侶によるその教えの解釈もあまりにも数が多いからである。

皆さんの中から、ある方が実際に修行を始めようとすると、今度、あらゆる宗派が自分の修行法こそ、マハーサティパッターナ(大念処径)にもっとも正当と出張され、場合によって、他の修行院を批判し、間違っていると宣伝する。

このような困難は誰でも経験する。だから、私が自分に問い掛けたのは、バーリ語の単語を知らなくても簡単に修行することができるかどうか、また、本を読まずに、修行院に通わなくても、修行は果たして可能であろうか。

実はお釈迦様の教えにおいて、ダンマはシンプルで、とても普通である。これは多くの証言からでも分かることである。それは、お釈迦様から直接に教えてもらった弟子の証言である。“とても明快で、釈迦様の教えによって、うつ伏せから仰向けになったように..”と囁いた。

そもそも、ダンマは身近にあり、すごく近いものである。自分自身のことである。ダンマの範囲は極めて、簡単である。単なる“どうすれば、苦が生じない”だけである。

そう聞いて、それは不思議なことではないと感じた者もいる。何故ならば、それを耳にした者はダンマと共に生まれ、ダンマと共に生き、ダンマの共に死ぬからである。これは、以前から不変である。ただダンマの存在が見えないだけである。お釈迦様の指導によって、簡単に辿り付けるようになっただけである。

さらに、、複雑なダンマを簡略に分かりやすく説明できる知性豊かな釈迦様は、あえて、相手にダンマの適切な範囲を合わせながら、深く拡張して教える。言葉の障害を取り除きながら、聞いた人に理解できるような言葉で、ダンマを指導するのである。

これは後の世代の修行者やダンマの教師と違った。彼らはごく普通で身近なダンマをとても難しく複雑で遠くて届けないことに仕上げてしまった。しかも、聞いてもすぐ理解できない言葉を使って教えてきた。

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外へ心・思いを寄せるのは集諦である。 外へ心・思いを寄せた結果は苦諦である。 心・思いを明らかに見えるのは道諦である。 思いを明らかに見える心は滅諦である。 さて、心の真の状態とは自然に感情に応えるために外へ出てゆく。 だからってしかし、外へ出された心は感情を受けると、心がその感情に従って揺れたり、震えたりするのは、これが集諦である。 感情によって、揺れたり、震えたりする心は、結果には、苦諦である。 外へ出て、感情を受けても、その感情によって、揺れたり、震えたりせず、意識が完璧に保つのは、これが道諦である。 意識があるので、心が揺れたり、震えたりしない心による結果は滅諦である。 崇高な精神で悟った人達は外へ心・思いを寄せない。 心は揺れたり、震えたりしない。これはウィハーンタム(悟った人の心の居場所)である。 四諦終了 ルアンプー・ドウン

当ウェブdhamma.comはルアンポー・プラモート・プラモートショーの弟子達及びダンマ・メディアファンドによって作成され、その主な目的としては、お釈迦様の仏法を収集・普及するためである。特にルアンポー・プラモート・プラモートショーから教える日常生活の中における意識の自覚法、自分の体・心の変化を素直・真正に意識する方法である。
ルアンポー・プラモートの在住する僧院は, タイ王国チョンブリ県シラチャ郡にあるワット・スアン・サンティタム寺院である。